沈々革命本部

生命体排除機動要塞都市

虫食べるお

周りから言われ続けると、実際そんな気がしてきてしまう。と言う問題があります。親から褒められることを知らず「お前はダメなやつだ」と言われ育った子どもは自分のことを「ダメなやつ」だと考えて、自信を持って振る舞うことが難しくなる。みたいなことです。僕たちはそれと同じような圧力を親ではなく社会からかけ続けられている。「男“なら”泣くな」とか「女“なのに”数字に強い」とか、男とはこうで女とはこう。お前はこう。こうあるのが普通。違うのは変。という圧力。社会の中に自然化された通念が「こうあるのが普通。こうでないのは異常。」と、僕たちに声を浴びせ続ける。その結果、僕らは知らず知らずのうちに、自分をその通念に沿うように変質させてしまっているのではないか、男女の差とか世代の差とか人種の差とか、色々な差異や傾向は、実際に初めから存在していたわけではなく、社会通念や常識という圧力によって後天的に構築されたものに過ぎないのではないか。と、疑いにかかる立場を『社会構成主義』というらしい。

 

僕は個人的に、昆虫に対する価値観と言うのは、典型的な社会構成主義の産物だと思ってます。だって虫って可愛いしかっこいいし、ほとんどの子供が虫好きじゃん。虫は怖い、きもい、汚い、触りたくない。無理、という価値観って後天的、社会的に押し付けられたものだと思うわけです。人類に先天的にプログラミングされた進化の産物だとは思えない。サバイバル番組なんかでは昆虫を「貴重なタンパク源です」と言って食べる(そこでは必ず「イヤー」とか「キャー」みたいなSEが入り、『虫を食うなんてあり得ない!』言う通念を強化しようとする)お決まりのシーンがありますが、人類がその歴史のほとんどの時間を過ごしてきた狩猟経済社会において、昆虫が「貴重なタンパク源」であったことは事実でしょう。ましてや、今でも世界中の多くの場所で虫は食べられているわけです。アジアで、アフリカで、オセアニアで、もちろん日本でも。
なんか西側先進国の子どもたちの間で『虫離れ』が顕著らしいですが、これも例外的に基本食虫に対して忌避的な欧米的な文化が絶対化され、僕たちアジアの島国の人間も巻き込まれちゃってるっていういつもの話なんじゃないか、と思うわけです。

 

この間、沖縄こどもの国の張り紙がバズってました。

 

『虫に対して「気持ち悪い」「きたない」「こわい」と、
お子様の前で言わないでください。
虫たちは美しく、
素晴らしい能力を持っているいきものです。
保護者の方が「気持ち悪い」というと、
この価値観はずっとお子様に植え付けられてしまいます。
ひとそれぞれの好みはありますが、
いきものが持つ魅力を感じた上で、
お子様自身から出てくる感情を
大切にしてあげてください。』

 

僕はこの張り紙の主張に同意しています。親が虫を気持ち悪いものとして扱うことで子供も虫を気持ち悪いものと思わされている。結果として虫は触ることすらできないくらい恐ろしい存在として構築されてしまう。虫に限らず、現代社会を生きている僕たちの周りに渦巻く嫌悪とか偏見って、大抵はそういうものなのではないかという人もいます

 

僕は安易な本質主義(社会構成主義と対立する。『元からそういうものとして確固とし存在してた』という立場)に無批判に与したく無いなぁと思っていて、本質主義に対しては構成主義的な検討を与えなければいけないと思っています。しかし口では簡単に言えても実際にそれを実行するのは困難で、そもそも偏見を偏見であるとすら気づけないような場合も多いと思います。日常生活で常にあらゆるものを批判的に検討している余裕は僕らにはありません。しかし少なくとも、僕たちの思考や価値観が、社会権力に構築されたものであるという可能性を頭の片隅に置いておきたい。そこで、虫を食う。これが有効なのではないかと思う

 

東洋哲学では単に知識として知っている状態と、実感的・体験的に理解したことを区別して、後者を『悟った』というそうです。虫を食べるという体験は、まさしく僕達の価値観が社会通念によって構築されたものであると『悟る』手助けになるのではないか、
食虫文化研究者の野中健一によると、『三重大学での授業の試食会の結果では、イナゴ、ハチの子、イモムシのいずれかを食べた者は、九五名(八四・一%)で、何も食べられなかった一八名(一五・九%)を遥かに上まわ』り、『昆虫をはじめて食べたという人は、食前は「気持ち悪い」「不味いと思っていた」のだという。だが、試食後は「食べてみれば平気であった」「予想以上に美味しかった」という感想へとかわる』という(『虫食む人々』より)。注目すべきは、虫を食べる前に持っていた昆虫食への通俗的な嫌悪感が食後には否定され、肯定的なものへ変質していることです。社会通念によって構築された。嫌悪させられていた状態から、味覚という個人的な感覚へと価値観を奪還することに成功し、結果的に肯定的な意見へ変わったわけです。触ることすらできないほどの嫌悪の対象であったはずの昆虫も、実際には食べられる。口に入れて飲み込み、体の一部として吸収するという、究極的な接触が、意外にも可能である。ということを、個人的・体験的・感覚的に悟った。価値観を社会から個人へ奪還することに成功した。これは虫を食べる以前の自分の感覚が、社会によって構築されたものであることを強烈に印象付ける出来事として記憶されるのではないか。と思うわけです。この経験は、自然化され、感覚的なものとして内面化されてしまった、通念やら常識のような圧力を批判的に検討する力を僕たちに与えてくれると思うんです。どうですか?

 

というわけで、虫を食うといいと思う。虫を食って、意外といけるじゃん。と思え。思わなくてもいい。美味いと思うかどうかは個人の嗜好だ。問題は個人の嗜好というところに自分の感覚を取り返すこだと思うわけです

 

今はカミキリムシの幼虫を食べてみたいです

 

おわり